古文の敬語を学習した人が、最初に気になるのは、古文の敬語は、現代の敬語と同じなのか、違うのか、という点でしょう。

 結論から言うと、古文の敬語と現代の敬語は、基本的に同じです。

 ただ、「基本的に」なので、一部に違いもあります。

 この記事では、古文の敬語と現代の敬語が、どこまで同じで、どこが違うのか、具体的に説明します。

 なお、違いだけすぐに知りたいという方は、「4 謙譲語の場合」からお読みください。

1 現代の敬語と古文の敬語の定義

 現代の敬語については、だいたい中学校で学習しますが、およそ、次のように習うと思います。

 一方、高校で習う古文の敬語では、次のように説明されていることが多いでしょう。

尊敬語:話し手が、話題の中の動作主への敬意を表す。
謙譲語:話し手が、話題の中の動作の受け手への敬意を表す。
丁寧語:話し手が、話の聞き手への敬意を表す。

 全体を見渡して、まず、「話し手」が敬意を表している、とする点は、すべての敬語に共通しています。
 この点を踏まえた上で、さらに、それぞれを見比べてみましょう。

2 尊敬語の場合

3 丁寧語の場合

4 謙譲語の場合

 ちなみに、「自分」は、〈動作をする人物〉なので、ここでは、「自分」が「動作主」に当たります。
 そのため、「自分の動作や状態をへりくだって言う」というのは、「動作主を低める」ということになり、現代の謙譲語は、「動作主を低めて、動作の受け手への敬意を表す」と言い換えることができます。

5 古文の謙譲語は、動作主を低めない

補語尊敬語は、主語を低める働きはなく、単に補語に対する敬意を表すと考えなければならない。(551ページ)

[帝ハ]一の宮を見奉らせ給ふにも(源氏物語・桐壺)

 これは、『源氏物語』の「桐壺」巻の一節で、「桐壺の帝」が、「第一皇子(=一の宮)」の様子を見ながら、亡くなった「桐壺の更衣」の私邸に下がっている「第二皇子(=光源氏)」のことを思う、という場面の一部です。

 ここでは、帝の動作が「見奉らせ給ふ」と表現されています。このうち、「奉らせ」が謙譲語で、この「奉らせ」の敬意の対象は、「見る」という動作の受け手である「一の宮」です。

 一方で、身分の上下に注目すると、「帝」は世の中で最も身分の高い人物であり、当然、「一の宮」よりも高い身分です。その最高位の人物である「帝」の動作に謙譲語が用いられている点がポイントです。

 もし「謙譲語」に「動作主を低める働き」があるならば、この場面の話し手は、わざわざ、最も身分の高い「帝」を低めて、(帝よりも身分の低い)「一の宮」に敬意を示したことになってしまいます。

 これは、不自然な現象ですね。

 このような不自然さを解消するためには古文の謙譲語に、動作主を低めるという働きはなく、ただ、動作の受け手への敬意を示しているだけである、というように考え方を変える必要があります。

6 まとめ

古文の敬語と現代の敬語

古文の敬語と現代の敬語は、基本的に同じものである。
古文の謙譲語には、〈動作主を低める〉という働きがなく、その点で、現代の謙譲語と異なっている。