古文の敬語を学習した人が、最初に気になるのは、古文の敬語は、現代の敬語と同じなのか、違うのか、という点でしょう。
結論から言うと、古文の敬語と現代の敬語は、基本的に同じです。
ただ、「基本的に」なので、一部に違いもあります。
この記事では、古文の敬語と現代の敬語が、どこまで同じで、どこが違うのか、具体的に説明します。
なお、違いだけすぐに知りたいという方は、「4 謙譲語の場合」からお読みください。
1 現代の敬語と古文の敬語の定義
現代の敬語については、だいたい中学校で学習しますが、およそ、次のように習うと思います。
尊敬語:話し手が、相手の動作や状態などを高めて言うことで、相手への敬意を表す。
謙譲語:話し手が、自分の動作や状態などをへりくだって言うことで、相手への敬意を表す。
丁寧語:話し手が、丁寧な表現を用いることで、話の聞き手への敬意を表す。
一方、高校で習う古文の敬語では、次のように説明されていることが多いでしょう。
尊敬語:話し手が、話題の中の動作主への敬意を表す。
謙譲語:話し手が、話題の中の動作の受け手への敬意を表す。
丁寧語:話し手が、話の聞き手への敬意を表す。
全体を見渡して、まず、「話し手」が敬意を表している、とする点は、すべての敬語に共通しています。
この点を踏まえた上で、さらに、それぞれを見比べてみましょう。
2 尊敬語の場合
まずは、尊敬語です。
現代の尊敬語と古文の尊敬語の定義を並べてみると、
現代の尊敬語:話し手が、相手の動作や状態などを高めて言うことで、相手への敬意を表す。
古文の尊敬語:話し手が、話題の中の動作主への敬意を表す。
となります。
先ほど見たように、「話し手」が敬意を表すという点は、共通しています。
では、誰に対して敬意を表しているのでしょうか。
古文の尊敬語では、「動作主への敬意を表す」とあります。
一方、現代の尊敬語では、「相手への敬意を表す」とあり、古文の場合と少し説明が異なっています。
けれども、この「相手」というのは、「動作や状態など」の主語に当たる人物、つまり「動作主(=動作をする人)」を指しており、現代の尊敬語も、やはり「動作主」への敬意を示していることになります。
以上のことから、現代の尊敬語と古文の尊敬語は、どちらも、「話し手」から、「動作主」への敬意を表すものとして、同じであることが分かります。
現代の尊敬語には、「相手の動作や状態などを高めて言うことで」という説明がありますが、これは、敬意の表し方の具体的な方法を説明しているもので、敬意の対象が、古文の尊敬語と違っているわけではありません。
3 丁寧語の場合
次に、謙譲語を一旦飛ばして、丁寧語について見ます。
現代の丁寧語と古文の丁寧語の定義を並べると、
現代の丁寧語:話し手が、丁寧な表現を用いることで、話の聞き手への敬意を表す。
古文の丁寧語:話し手が、話の聞き手への敬意を表す。
となります。
現代の丁寧語は、「丁寧な表現を用いることで」という、具体的な敬意の表し方を説明していますが、それ以外は、古文の丁寧語の説明とまったく同じです。
つまり、どちらの丁寧語も、「話し手」が、「話の聞き手」に敬意を表している、ということになり、現代の丁寧語と古文の丁寧語は、やはり同じものと考えてよいでしょう。
4 謙譲語の場合
最後に謙譲語です。
謙譲語には、現代の謙譲語と古文の謙譲語の間に、違いがあります。
違いの説明の前に、共通点を見ておきましょう。現代の謙譲語と古文の謙譲語の定義を並べると、次のようになります。
現代の謙譲語:話し手が、自分の動作や状態などをへりくだって言うことで、相手への敬意を表す。
古文の謙譲語:話し手が、話題の中の動作の受け手への敬意を表す。
古文の謙譲語は、敬意の対象が「動作の受け手」と説明されています。
一方、現代の謙譲語は、「相手への敬意」という説明をしていますが、この「相手」というのは、「自分の動作」が及ぶ「相手」のことで、それを言い換えると、「動作の受け手」となります。
ちなみに、「自分」は、〈動作をする人物〉なので、ここでは、「自分」が「動作主」に当たります。
そのため、「自分の動作や状態をへりくだって言う」というのは、「動作主を低める」ということになり、現代の謙譲語は、「動作主を低めて、動作の受け手への敬意を表す」と言い換えることができます。
話が少しそれましたが、現代の謙譲語も、古文の謙譲語も、「動作の受け手」への敬意を表しているという点では共通しています。
では、どこに違いがあるのでしょうか。
それは、現代の謙譲語の定義に出てくる、「自分の動作や状態などをへりくだって言うことで」という部分です。
現代の尊敬語や現代の丁寧語には、具体的な敬意の示し方が説明されていました。そのため、現代の謙譲語にも、具体的な敬意の示し方が説明されていてもおかしくありません。
しかし、古文の謙譲語の場合は、この内容自体が問題になるのです。
なぜなら、古文の謙譲語については、〈動作主を低める〉という言い方が不適当だと考えられているからです。
5 古文の謙譲語は、動作主を低めない
古典文学の研究者によく参照されている文法辞典に、小田勝『実例読解 古典文法奏覧』(和泉書院)という本があります。
この本の中には、次のような説明があります。
補語尊敬語は、主語を低める働きはなく、単に補語に対する敬意を表すと考えなければならない。(551ページ)
聞き慣れない専門用語が出てきますが、ここでいう「補語尊敬語」とは「謙譲語」のことで、「主語」とは「動作主」、「補語」とは「動作の受け手」を指しています。
それを踏まえて、分かりやすく言い直すと、
謙譲語は、動作主を低める働きはなく、単に動作の受け手に対する敬意を表すと考えなければならない。
となります。
つまり、古文の謙譲語には、〈動作主を低める〉という働きはないというのです。
なぜ、そのように考えられるのでしょうか。
『実例読解 古典文法奏覧』では、次のような例文を挙げて説明しています。
[帝ハ]一の宮を見奉らせ給ふにも(源氏物語・桐壺)
これは、『源氏物語』の「桐壺」巻の一節で、「桐壺の帝」が、「第一皇子(=一の宮)」の様子を見ながら、亡くなった「桐壺の更衣」の私邸に下がっている「第二皇子(=光源氏)」のことを思う、という場面の一部です。
ここでは、帝の動作が「見奉らせ給ふ」と表現されています。このうち、「奉らせ」が謙譲語で、この「奉らせ」の敬意の対象は、「見る」という動作の受け手である「一の宮」です。
一方で、身分の上下に注目すると、「帝」は世の中で最も身分の高い人物であり、当然、「一の宮」よりも高い身分です。その最高位の人物である「帝」の動作に謙譲語が用いられている点がポイントです。
もし「謙譲語」に「動作主を低める働き」があるならば、この場面の話し手は、わざわざ、最も身分の高い「帝」を低めて、(帝よりも身分の低い)「一の宮」に敬意を示したことになってしまいます。
これは、不自然な現象ですね。
このような不自然さを解消するためには、古文の謙譲語に、動作主を低めるという働きはなく、ただ、動作の受け手への敬意を示しているだけである、というように考え方を変える必要があります。
以上のような背景があり、古文の謙譲語については、〈動作主を低める〉という説明は適合しません。したがって、この点が、現代の謙譲語と古文の謙譲語の違いといえるでしょう。
皆さんも、古文の謙譲語は、「動作の受け手への敬意を表す」という特徴のみを覚えておくようにしましょう。
6 まとめ
記事をまとめます。
①古文の敬語と現代の敬語は、基本的に同じものである。
②古文の謙譲語には、〈動作主を低める〉という働きがなく、その点で、現代の謙譲語と異なっている。